#28 一流の教師とは

「その巨人の恐ろしさを自分の親や兄弟、愛するものにも味わわせたいものも!!
ここから去るがいい!!」 (『進撃の巨人』諫山創 )
正確には覚えていないが、10年前にこんな主旨の記事をどこかで書いたことがある:
「教師は、教えることができてもまだ三流。楽しく教えることができるようになって、ようやく二流。
一流の教師とは、学習者が気づいて学んでいけるような授業を組み立て実践できる者である。」
もちろん、今もその考えは変わっていない。私は常にそうありたいと思って日本語教師をしている。
ただ、変わったのは、「これは、私の信念、持論であって、他の人に押し付けるべきでない」
と思えるようになったところだ。
なぜなら、学びを得るのは学習者自身であって、それは教師のものではないから。
極論すれば、たとえどんなにひどい教え方をされても、優秀な学習者はそこからも学んでいく。
つまり、私のような教師であろうと、私とは正反対の教師であろうと、学習者は学んでいく。
辛い目にあった方が伸びる学習者もいるし、そうでない学習者もいる。
私のような教師が好きな学習者もいれば、「自分でやるから放っておいて」という学習者もいる。
「教育は教育者のもの」。そして、「学習は学習者のもの」。
教育が学習に与える影響は、実は、教師側が思っているほどの影響や効果はないのでは?と思う。
大半の学習者にとっては、教師が提供できるのは、せいぜい学習のきっかけ程度。
その中のごく少数の人にとっては、それが大きく響く授業となるのかもしれない。
そして、その逆で、まったく無意味に近いと感じる人も少なからずいると思われる。
そう考えると、私が目指していることと学習者の学びには、思ったほどの結びつきはないだろう。
だから、より良い教育を実践しようとしているその誠意が学習者に伝わればそれでいいし、
そして、私が自分の職務に忠実であろうとするその熱意が同僚教員に伝わればそれで良しとする。
これらは、言わば私の自己満足の域を出ないものであるが、その程度で収めておくのがいいのだ。
それに三流が悪いのかと言えばそうでもない。私は人付き合いが苦手で人見知りをするタイプだが、
学習者にとっては、たとえ三流でも、屈託がなく誰とでも仲良くなれる教師の方がいいことがある。
学習者の学習動機を掻き立てるものは、目的や目標、上達よりも「先生が好き」が上だからだ。
授業準備に時間をかけて部屋に籠るよりも、学生と出かけて楽しい時間を過ごせる人の方がいい。
仮に私が教員として誰かを雇うとすれば、私が持っていない能力をもっている人がいい。
運営管理能力や学生と仲良くできる能力など…を持っている人。
そして、その得意分野を磨く意識をもって誠実に働く意志がある人と働きたいと思う。


