#19 私は器用貧乏

「私は…大勢の人の幸せのために、死んであげた。…でも、その時に心から願ったことがある。
もし、生まれ変わることができたなら…今度は自分のためだけに生きたいと…そう…強く願った。」  (『進撃の巨人』諫山創 )

「器用貧乏」という言葉。その意味は、大抵下のようなものだろう。
「何でも卒なくこなすが、結局何も極められず大成しないこと」
けれども、何も極めなくても大成する人もいるし、そもそも大成って何?とも思う。
皆が大成するわけではないし、大成しなくても、その人が幸せならそれでいいわけで。

それでも、私は自分のことを器用貧乏だと思う。「器用貧乏」を私は以下のように定義する。
「物事は器用にこなすが、世渡りが不器用なため才能に見合わず不利益を受けやすいこと」

私は子どものときから、何においても、中の上程度にはできた。勉強もスポーツも。
いつも、「それって、こうこうこうすればできるんでしょ?」って感じで斜に構えてて、
自分は「何でもできる人間」と思う一方で、心からやりたいことがあるわけでもなかった。

ただ、できなくて困っている人や、「やってくれない?」と頼まれたときには、
やってあげることが嫌いではなかった。人から感謝されることは嬉しかったから。
というわけで、心の中ではやりたくないと思っていても、いい人と思われたいからやる。
その結果、貧乏になってしまうという仕組み。

思うに、何も極められない人は、人付き合いや世渡りが上手ければ、幸せになれる。
反対に、人付き合いや世渡りが下手な人なら、何かを極められれば、幸せになれる。

上の考えが世の中の道理として正しいとするなら、器用貧乏な人は、
いつまでたってもその道理に気が付かず、人付き合いを避けつつ小手先で生きる人。

けれども、ある時期に私は気づくことができた。「自分は何もできない人間だ」と。
それは、あるボランティア団体の活動に参加したことが大きかった。
そこはクセ者の巣窟だった。「自分はこれがしたい!」という人の集まりだった。
一方の私は、「頼まれればやる」人。「ボランティア=自発的」とは対極の人だ。

表には出さないが「自分は何もできない人間」という想いに苛まれ、苦しかった。
だけど、そこまで追い込まれて、やっと気づけたことがあった。
それは、「自分はこれしかできない」という気づき。
「これ」とは、「日本語を教えること」。
「日本語を教えること」も、実は、心からやりたいこととは思っていない。
けれども、おそらく、日本語を教えることに関しては、ハイレベルのスキルがある。
なぜなら、この20年弱、手を抜かずにやってきた経験があるから。

もし、私がこの起業で、自分が納得できるくらいの成功を収められたなら、
そのときは、晴れて「器用貧乏」を返上しようと思う。

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